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言葉はツールであるという言語観に感じる違和感


内田樹の研究室: 言葉の力

私、このお話の後半理解できていないんですけども、「言葉は道具だ」という言語観の人に関しては、つねづねもどかしい違和感を抱いてまして、その感覚をなんとか言葉にしてみたいと思います。漢字が多い文章になりそうなので、道具を「ツール」と言っていきます。

私も「言葉はツールだ」というのは全然間違ってはいないと思うのです。ひとつは「コミュニケーションのためのツール」であって、もうひとつは「思考のためのツール」だと思います。

私は、コミュニケーション(意思疎通)が言葉の役割の第一で、他人に説明できる「言葉」というツールを使って、言語思考も始まったんじゃないかと勝手に考えています。言葉を使わなくても意思は持てますが、他人に説明できるような「思考」はほとんどすることができません。

ただ言葉というのは「ツール」と言うだけではなくて、コミュニケーションや思考の「材料」でもあります。文章を書く材料、話し言葉の材料は、自分が知っている言葉の倉庫から取って来ないといけません。

「ツール」であり「材料」でもある? そういう存在というのは、「ツール」や「材料」などと呼ぶ以上のものではないかと、疑問がわいてきます。もしかすると、「国民は国家を運営するためのツール」というような極端なことを言っているのかもしれません。

例えば私たちが「体操」をしたとき、私たちの「肉体」は「体操」というものを体現するための「材料」です。同時に、肉体は肉体自身を動かす「ツール」であると言えます。他に呼びかたを探しますと、肉体は体操を“具体的に表現するもの”であって、こういうものを「客体」というのだと思います。私は哲学を知らないのでもっと適切な用語があるかもしれませんが、ここではそう呼ばせてください(参考:主体と客体 - Wikipedia)。

そこで肉体という「客体」に体操をさせている、体を操っている「主体」というものは別に考えられます。それはまあ「精神」というものを仮定して主体に据えるという考え方があるでしょう。また「脳」が主体であると考えたり、脳の中でも他からの命令を受けない、インプットがアウトプットに変わる瞬間の現象や部位を切り出せるとして、それを主体と呼んでもいいかもしれません。

すると「体操をしているのは『精神』であり、肉体はそのための材料であり、道具である」と言うことができます。その言葉自体に矛盾はないように思えます。でも、普段からこういう考え方をしている人は少ないでしょう。

そこでは、肉体と精神のからみあいがあえて無視されているわけです。肉体の自律的なふるまいもあるわけですが、どこかで精神と肉体を寸断して、主体と客体に切り分けています。肉体から脳に伝わるインプットと、脳からのアウトプット、両方が非常に緊密に、相互に影響しあって、体操は営まれていきます。肉体の中でどちら側ともいえない中間地帯があっても、精神側と肉体側にばっさり断ち切る。始めに精神があり「体操の主体は精神である」と断言するには、そういう決然とした「ものの見方」を導入しなければなりません。

そういう二元論が間違っているということではないのですが、そこまでしても、肉体抜きの「体操」というものは日常的な価値観でほとんど意味がないので、多くの人は「肉体は体操の主体ではない」とは考えないのだと思います。私も考えません。

同様に、「言葉」が「言語思考」において「ツール」であると言うためには、「言葉は言語思考の主体ではない」という考え方をしなければいけません。これはもう精神の内側ともいえる領域ですから、どこからが客体で、どこからが主体かを考えるだけで大変です。ここでなんとなく「自分」を主体、「言葉」は生物じゃないから客体、と割り切ってしまう人は、やはり「言語思考」をよく見ていないのではないかと思います。

言葉は脳の中にあるツールであり材料ですから、脳の中から「その思考」を「させている」はずの、より根源的な生理現象や脳内の部位を指して、それこそが思考の主体であると言い切っていかないといけません。その「主体」は経験や言葉によって確立されたあなたの「自我」ではありません。もっと低次の意思です。今これを読んで理解しているあなたは、その意思から見て「ツール」である、としなければいけません。

さらにその「言語思考の実演」において、言語自体が自律性を持って次の瞬間の思考を導いているという、言葉から脳への作用は「無い」ものとするか、「外部からのインプットである」とすることで、「思考の主体」を言葉以外に求め、「言葉は思考のツールである」と言えるようになります。これは私の感覚では、かなり受け入れがたい発想です。

自分の思考を眺めてみるのは難しいですが、どうしたって頭に浮かんだ言語は私の思考に大きく影響してしまい、控えめに表現しても“私の精神は言葉とペアで踊りながら考えている”ぐらいに感じます。脳の中で主客二元論を展開する気になれません!(ヒロシ風)

まあ、展開すればできないこともないでしょう。でも「言葉は道具だ」という言語観の多くの方は、別に特にそこまで決然と思考の主体から言葉を切り離す二元論的な見方をしているわけではないだろうと思うのです。

言葉は外国語に切り替えられる人もいますし、言葉を使わないパズルのような思考もありますから、取り替えのきく存在として「言葉は道具のようなものだ」と認識されるのではないかと思います。で、そういう人は、言葉が「自分」という概念にどれほど食い込んでいるのか見ていないように私には感じられるのです。

言葉の存在は思考の実演の大半と言えるほど大きく、言葉がなければ「我思う」と思うことすらできません。少なくとも「それ無しでは踊れないパートナー」ぐらいには認めたくなります。「ツール」と呼ぶのに比べれば、私は上の記事での私たちを幽閉している檻や、むしろ言葉が私の主人という比喩にうなづけるのです。


まとめますと、「言葉は道具だという考え自体は可能だろう。ただしそれを言う多くの人は、言葉は道具と言うだけでなく資料でもあるどころか、言語思考の実演をしているのが『自分』といった観念をも含む『言葉』であることを見落しているのではないか。もしそれをふまえても『言葉は道具だ』と考えるのであれば、どのような価値観で言っているのだろう?」ということです。

(2006/2/15記。2/16一部修正補筆。)


(追記/私信)ro-manさんに忠告を頂いたようなのですが、推薦図書と私の意見との関連と、ro-manさんの例えが分からず、お持ちのご意見も推測できませんでした(フェルディナン・ド・ソシュール - Wikipediaぐらいは眺めたのですが)。勧められた参照情報の量が大きそうなので、そのあたりまで教えて頂けるとありがたいのですが……。 >id:ro-manさん (さらに追記)ソシュール思想の基本概念ページを見つけて今読んでいます。(読んだ)これだけじゃ分からないみたいだ(ご指摘頂いた、なにがなんなのか)。パロールも言語思考の必須条件みたいですし、ラングの規則性は思考を促さないという話でも無いようですし。接点がつかめないなー。でも知識の差が大き過ぎるから「読め」なんだろうなー。うーん。